徒然なるままに、日暮らし、パソに向かひて、心にうつりゆく由なきネタを、そこはかとなく書きつくれば、あやしうこそものぐるほしけれ(何)

上からの続き。

No: 790
投稿者:管理人 04/10/16 Sat 14:11:25

その最終話感想に対する感想に対してもちょっと書かせてもらいます。
他にもそういう風に誤読されてしまっている人が居ると困るので、追記も兼ねて。

まず、「アルがエドを生き返らせようとしたのは決して反省しないわけでなく、死ぬつもりでエドを生き返らせようとしたんだ」とのことですが。
確かに、アルは自分が死ぬことを覚悟した上でエドを錬成しましたが、だからといって許される物かといったらそうではないと思います。
表面上は「嗚呼美しき兄弟愛・・・」とか見えますが、今のアルは「賢者の石」であること、それから以前母親の錬成に失敗して鎧の身体になったことで「人を甦らせることは出来ない」ということを身をもって悟っているはず、ということが問題です。

だいぶ前アルは「他人を犠牲にして取り戻した身体なんて要らない」という決意を語っています。
しかし今のアルは、何千人もの人の命を犠牲にして作られた賢者の石。だから、アルが自身の賢者の石を使ってエドを錬成すれば、それは確かにアル自身が犠牲にはなりますが、同時にリオールの街で「消滅」してしまった何千人もの兵士をも犠牲にすることになります。こうなると言うことは、アル自身も分かっていたはずです。最近では数話前でエンヴィーから「何千人もの人間が犠牲になった」と告げられたので間違いはありません。
なのに、アルは賢者の石を使ってエドを錬成しました。
これでは「前の『他人を犠牲にして~』ってセリフは何だったんだ」という事になると思いませんか?
それから、母親の錬成と今回とでは「完全にいなくなってしまった人を甦らせる」のと「門の中にいる人を引き戻す」という違いはあれど、「死者の復活」という点では全く同じことを繰り返したことも問題。これで「反省している」とは言えないと思います。

ここまでの文は全て作品の内部だけから見た話ですが、そこら辺は批判の対象として特に重要というわけではありません。
一番大事な、ぼくが一番批判したい点は作品の外側、つまり、このような展開に持ってきてしまった「脚本家」の力量にあります。
「アルが反省していない」ということではなく、「そう見える展開にしてしまった脚本家」の方を批判したいというのを勘違いしないでいただきたいです。
最終話の「エドは『向こう側の世界』に飛ばされて、アルは10歳の少年の姿で発見された。二人は互いにもう一度会うために旅を続ける。」という結末にどうしても持っていきたかったんだとしても、50話でエドがエンヴィーに刺されて瞳孔が開く(=死ぬ)という展開にしなければならなかったか・・・というと、そうではないと思います。
ぼくは脚本家ではないので上手いたとえ話も作れませんが、「赤ちゃんを使って門を開く」なんて設定も有るんですから、少なくともエドを別世界に飛ばすには「死んで、生き返って、もう一度アル錬成」という展開にする必要は全くなかったのではないか、と思います。

この展開で一番問題だと感じたのは、監督や脚本家自身が「人の命」というものをテーマとして視聴者に伝えていきたい、とか「リアリティを出したい」とか言っていたのに、こう、現実世界では有り得ない「人が生き返る」という展開を作り出してしまったことで、それらのテーマやリアリティが一切台無しになってしまっているってことです。
「終わりよければ全て良し」という言葉がありますが、その「終わり」で今まで積み上げてきたこと全てをぶちこわしてしまっては、「結局あなた達はこの作品を通じて視聴者に何を伝えたかったの?」と思わざるを得ません。
監督や脚本家には首尾一貫した姿勢を持って欲しかった。そういうことを特に言いたかったために、ぼくはこうしてアンチしているんです。


あと、劇場版が不安ばかりなのも、「もしかしたらうまく作ってくれてこのTV版に対するモヤモヤを晴らしてくれるかもしれない」という期待よりも、アニメがこんな状態だからどんなことになるかわからない、という不安の方が圧倒的に大きいというのは紛れもない事実だからこそそのように書きました。「不安だが楽しみだ」では期待の方が大きいという意味になってしまうので、どう頑張ってもそうは書けません。


最後に、ぼくは原作に関しては盲信者レベルなのでよろしく(何)



以上、なんかやたら長文になってしまった(何)
まさか1つの投稿で入らなくなるほどだったなんて(爆)


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