徒然なるままに、日暮らし、パソに向かひて、心にうつりゆく由なきネタを、そこはかとなく書きつくれば、あやしうこそものぐるほしけれ(何)

この日記はレポートやテストが迫ってきているけどさほど切迫していない状態の時に一番書かれる頻度が高くなる(何)

No: 1020
投稿者:管理人 2005/10/29 Sat 03:03:08

先週~今週あたりがまさにその状態ww
頭使ってるおかげでいろいろ余計なことまで考えるから書くネタがぽんぽん出てくるんだろうか。
いや、単なる息抜き・気分転換と称した現実逃避か(何)

というわけで、「乗りつくしの旅」にちらっと触れてから、最近書こう、書きたいと思っててもなんか気合い入りすぎて長くなりそうだから後にしようと先送りしていたらもう次の週の放映が来て書かずじまいになっていた絶対少年ここ2話についてざっくり書いて、さらに絶対少年についてちょっと思ったことを付加。
なんかNHK BS-2ネタオンリーですね(何)

◆乗りつくしの旅
昨日は様似駅から中継で、旅の映像は前の日、即ち日高本線清畠駅から様似駅までの旅路。
最初の途中下車駅は、だいぶもう末端に近い絵笛駅。

・・・・。

えっ?!

いやあの、その駅ぼくも途中下車したんですけど(爆笑)

ほらここに写真もある(爆)

番組見た方は分かると思いますが、この駅、回りに何があるわけでもなく、「秘境駅」として名高いわけでもなく、単に右も左も牧場が広がってるというだけの駅。
ぼくは日高線乗りに行く前に、どこでも良いから1ヶ所「主要駅と秘境駅として名を馳せちゃってる駅以外で、『日高らしい』景色の駅」で降りたいなと思って日高線全線全駅の写真を掲載してるサイトで適当にあたりをつけて「あ、ここでいいや」とサイト見始めて僅か3分で降りることを決めた、それだけの駅なのに、なぜそんな駅で降りる関口知宏(何爆)
まぁ、競馬好きには場合によっては有名なのかも知れませんが。

今日の放送で車内に入り込んだトンボを外に追い出してたのも絵笛駅だったし。
何なんだこの偶然(爆)


で、昨日の放送では絵笛から列車に乗って、日高幌別でまた下車。

えー・・・
降りちゃいませんが何かしらんけど車内からの写真が有りますね(爆)



もう、何今回(爆)



ちなみに今日、実験が早く終わったので15時頃ヨドバシとかうろついてて、ヨドバシからビックへ移動するとき普段通らないJRの改札の前とか通ってみましたが、さすがにロケには遭遇せず。
可能性としては16:20札幌発の便に乗れば今日中に新十津川たどり着くから居る可能性はゼロじゃなかったけど、今日の経路(夕張-千歳-札幌-新十津川)のうち千歳から新十津川行く途中の石狩当別までは近郊区間で列車本数ものすごいから途中下車し放題だし、そもそも札幌駅で改札出るかどうかもわかんないから遭遇できなくて当然ですな。
実際何時頃来たのかは明日の放映で分かるかな。



◆絶対少年21話「いい子でいることの意味」
前回に引き続きみんな鬱(何)

最近まっきーよりも成基とりえぞーの方が見てて「イーってなる」な。
成基はいつまでもうじうじうじうじと・・・
りえぞーはどこまでも「いい子」キャラで・・・

まぁ、今回はそんなりえぞーが「いい子」をやめる重要な転機の回だったので、やっと2~3話続いた「全員鬱状態」脱却の兆しが見えてきましたが。


今日のまっきー(何)
前々回で何か変化の兆しが見えたマッキーですが。

やっぱまっきーはまっきーだったよ(爆)



でも結局その先押しが弱くて肝心なこと言えないのね(爆)

もう、いい加減言えよそこで!!(爆)
言えない気持ちも分かるけど!(爆)


女性視点では「イーってなる」と言い放った甲斐田さんのインタビューの時司会の吉田さんも言ってたけど、男性視点からだとまっきーは「応援したくなる」のかもしれない(何)

◆絶対少年22話「消えたものと生まれるもの」
いい子で居るのをやめたりえぞーが最初にした「『いい子』への反抗」は、学校サボって羽鳥次郎に会いに行く・・・・・なんで?
最初に「あの光」を見て全てが始まったときに出会ったから?
何かこの行為はよく分からなかった。

一方久々登場のあむ。
こいつもまだ鬱ってたらしい(何)
しかし阪倉からの電話が来て、吹っ切れた模様。

いやぁ、田菜編中盤で歩がわっくんとどっしる、しっしんのことを美玖以外で細書に打ち明けたのが阪倉だったときも驚いたけど、まさか横浜編でも立ち直らせるきっかけになる重要な役割を担うなんて、田菜編序盤じゃ想像も付かなかったなぁ。
なんか「親友」って感じで、いいね。

しかしオカカ婆・・・・ほんとにご逝去なされたんでしょうかね(つД`)

でもこの電話のシーンで一番気になったのは背後で流れてたアニメだな(爆)
何ですかアレは(爆)
ものすごく重要な会話が展開されてるのに、そっちばっか気になって一部頭に入ってこなかったよ(爆)
もう、あむがTV消したときはマジで「・・・ありがと、消してくれて」と思ったさ(何)
しかし歩くん、あんたも学校おさぼりですか?(何)
それとも高校入ってもまた不登校なんですか?
ってか昼間っからそんなもん見てるなんて、実はヲタk(ry



成基。
希紗みたいにここんとこずーっと「自分の殻」に閉じこもってたけど、ときみや特製オムライスの誘惑に負けて出てきた(何爆)
・・・・・なんか変化が急なような気がしてなりません(何)


今日のまっきー・その2(何)
お、言った!ついに言った!(何)

まぁ、先に吹っ切れたりえぞーにみなまで言う前に「ごめん」と遮られて撃沈したわけですが(爆)

でもフラれはしたけど「まだ出来ることがある」、「理絵子ちゃんも、谷川も、小早川も、みんな友達だから。」
そういってりえぞー、あむに続いて吹っ切れ第3号。
OPでは仲良し4人組なのにここんとこずーーーっとバラバラだった横浜編の主役達、最後にはOPみたいな仲のいい姿を一度でいいから見たいもんです。




そしてもうここんとこ完全にイっちゃってた希紗のもとには、ブンちゃんが背びれをくっつけたあの魚のオブジェが何やら「羽の生えた卵」に変わり、みなとみらい上空にはまたしてもあのエンディングに出てくる巨大な物体が出現・・・・・
横浜編もやっと話が動きそうだ・・・!
後4話・・・・どういうクライマックスが来るのかものすごく楽しみです。

そして、最近混迷の度合いを一層深める予告もどこまで突き抜けるのか激しく期待(爆笑)



◆ちょっと思ったこと。
須河原が田菜で”暖色系の光”に「マテリアルフェアリー」と名付け、横浜で”寒色系の光”に「マテリアルイーブル」と名付けたのって、横浜編最初の方ではなさんが「プチ家出」という言葉に対して言ってた「名前を付けることで安心して本質から目を逸らす」ってセリフと対になってるのかも。
”暖色系”は田菜での経験からなんとなく優しい感じだから「フェアリー(妖精)」で、”寒色系”は”暖色系”と仲が悪く相反した存在のように思えるから「イーブル(悪魔)」って付け方だとすると、かなり安直。

なんかよくわかんないけど、現象として『それ』は前からあった。
定まった呼び名がなかったときは、みんな勝手に「どっしる」「しっしん」「暖色系の光」「寒色系の光」「UFO」「幸せを運ぶ闇の光」とかいろいろな呼び方をしてた。
でもその時は「どっしる」と「しっしん」や「ブンちゃん」と言った”光”たちを全て≪個別に≫見てたし、論点も本当にあの”光”は存在するのか、”光”とは一体何なのか、とかいった≪存在≫そのものに焦点が当たってたと思う。

でも『それ』に「フェアリー」と「イーブル」なんて名前が付けられると、途端に「どっしる」と「しっしん」は「フェアリー」の枠の中に、「ブンちゃん」は「イーブル」の枠の中に括られちゃって、少なくとも須河原は個別には見なくなったし、論点も≪”光”の存在≫そのものから≪”光”の対立構造≫へとシフトしちゃった気がする。
「どっしる」「しっしん」「わっくん」と歩と「頭屋の森」を中心とした田菜の仲間たちの関係や、「ブンちゃん」と希紗を巡る成基、りえぞー、まっきーの関係という個別の問題を見るよりも、「フェアリー」という大枠を見る方が楽ってのは当たり前だけど、それじゃやっぱり「本質」ってのは見えないと思う。
安易に名前が付いちゃうと名前の権威ってのはデカくて、個別の事象を見ようとしてもやっぱり全体を意識しちゃって見えづらくなる。
だからあの「何にしても名前は必要」という須河原のセリフははなさんの↑セリフと対になってるんじゃないか、そんなことをふと思いました。


ってかよく考えてみると、この「名前を付けることで安心して本質から目を逸らしてる」という行為は、「絶対少年」という作品が描いてるいろんなテーマのうちの一つなのかもしれない。
文庫版の第1章でも、歩が不登校になってから部屋にいる時間が増えたことについて「そうしたら、まるでそれが流行のようにひきこもりと呼ばれるようになった。」という一文があったし、須河原が名前を付けたことについてもまっきーや歩が違和感示してるから、やはり「そう言う単純なもんじゃない」という方向に話が流れそうだし。
現実の社会に目をやってみても、アニメで言及されてる「不登校」「ひきこもり」「プチ家出」だけでなく「ニート」「キレる若者」「学級崩壊」「ドメスティック:・バイオレンス」・・・そんな風に≪社会問題≫とされてることがメディアでは日々報じられてますが、それらは全てこの「名前を付けることで安心して本質から目を逸らしてる」行為そのものだと思います。
今挙げた全ての事象は皆ごく最近~数年前になってからこの名前で呼ばれ、問題とされてきたものばかりですが、そんな名前が定着する前から事象そのものは存在していたはず。そしてそれらには本質を理解できる当事者や近しい周りの人とかが「かくかくしかじかな理由でこうなってるんだ、だからこうしなきゃ」と対処してきたはず。
でもその事象に社会全体に共通の名前が付けられると、途端に国とか自治体、あるいは何らかの団体とかそういった「全体」としてしか扱うことの出来ない人に対処が任されちゃって、それまでちゃんと対処してた「本質を理解できる身近な人」も、その事象の当事者を「不登校」だ「ひきこもり」だと枠で括って対処を放棄する場合がある・・・そんな事が実際に起こってるような気がしてなりません。

監督や文庫版著者の浜崎さんがどう考えてこの「名前を付けることで~~」というセリフを言わせたり「まるでそれが流行のように~~」という一文を書いたのか、それは当然分かりませんが、それこそアレ、「人は皆自分の見たいものを見る」ってヤツで、ぼくはこのセリフを通して「本質に目を背けてる」という事態に警鐘を鳴らしたいのかな、と、そう捉えました。
ぼく自身、こうやって前からあったであろう事にある日突然「名前」を付けて「社会問題」として報道されることに、前からときどき違和感を感じてましたし。


そんなこと考えてたらなお一層この作品の「深み」にハマって行ってしまった次第(何爆)







ああしまった、やっぱりちょっと気合いを入れたらこんな時間に(爆)
書き始めから2時間強(爆)



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